
矯正歯科治療と聞くと、多くの方は「歯並びをきれいに整える治療」をイメージするのではないでしょうか。しかし、実際の臨床では、歯の位置だけを考えればよい症例ばかりではありません。
歯周病によって歯を支える骨や歯肉が弱っている、すでに被せ物やインプラントが入っている、根管治療を受けた歯がある、歯を失った部分がある、顎の骨格に問題がある。成人の矯正治療では、このように複数の課題が重なっていることが少なくありません。その場合、矯正治療単独の視点ではなく、歯周治療、補綴治療、歯内療法、インプラント治療などを含め、お口全体を一つの単位として診断する力が求められます。
こうした「包括的矯正歯科」を体系的に学ぶために、東京日本橋AQUA歯科・矯正歯科包括CLINIC院長の綿引淳一先生が講師を務めているのが、Tokyo Innovation Instituteの「包括的矯正歯科 DIP矯正ベーシックコース」です。
本記事では、公式サイトに掲載されているカリキュラムと、運営事務局の公式Instagramで発信されている講義・実習の様子や受講者インタビューを参考に、このコースが何を目指し、どのような学びを提供しているのかをご紹介します。
「歯を動かす技術」の前に、治療のゴールを考える
矯正治療では、ブラケットやワイヤー、アライナーなどを使って歯を動かします。もちろん、その技術を正確に身につけることは重要です。しかし、どれほど精密に歯を動かせても、最初に設定した治療のゴールが適切でなければ、望ましい結果にはつながりません。
どの位置に前歯を置くのか。口元の見た目と機能をどのように調和させるのか。歯周組織の状態を踏まえ、どこまで安全に歯を動かせるのか。将来予定されている被せ物やインプラントに対して、どのようなスペースを準備するのか。抜歯と非抜歯のどちらが適切なのか。こうした判断は、装置を装着する前の診断と治療計画によって大きく左右されます。
DIP矯正ベーシックコースが重視しているのは、手技だけを覚えることではなく、「なぜその治療計画を選ぶのか」を説明できる診断力です。公式カリキュラムでも、第一回はイントロダクションと診断学から始まり、包括的矯正治療が目指すゴール、必要な検査、セファロ分析、模型分析、抜歯・非抜歯の判断、症例の難易度評価などが扱われています。
治療方法から逆算して患者さんを当てはめるのではなく、患者さんごとの問題点と最終ゴールを明らかにし、その達成に必要な方法を選ぶ。この順序を身につけることが、コース全体の土台になっています。
綿引先生が提唱するDIP法
本コースの中心となる考え方の一つが、綿引先生が発案した「Dual Incisal Planning(DIP)法」です。公式サイトでは、側貌セファロ分析を用い、矯正歯科学と補綴歯科学の診断を融合させながら、上下顎の前歯の位置を考慮して治療計画を立てる方法と説明されています。
前歯の位置は、単に歯並びの美しさだけに関係するものではありません。横顔や口元の印象、前歯の見え方、上下の歯の噛み合わせ、補綴物の形態などにも関係します。特に、矯正治療後にラミネートベニアやクラウンなどの審美修復を予定している症例では、矯正と補綴を別々に考えるのではなく、最終的な歯の形や位置を見据えて治療を計画する必要があります。
コースでは、このDIPコンセプトを具現化するためにDental Brain社と共同開発された、AI搭載の包括的矯正歯科治療支援システム「DIP Ceph」を用いたセファロ分析・診断法も扱われます。ただし、AIが自動的に正解を決めてくれるという意味ではありません。デジタル技術によって分析を支援しながら、その結果をどう読み、患者さん固有の条件にどう結びつけるかは、歯科医師の診断力に委ねられます。
デジタルと臨床判断を対立させるのではなく、道具の力を活かしながら、判断の根拠をより明確にする。その姿勢も、このコースの特徴といえるでしょう。

一年間、全六回で包括的矯正治療を立体的に学ぶ
このベーシックコースは、隔月で行われる全六回の年間コースです。対象は歯科医師で、矯正治療をこれから学びたいGP(一般開業医)から、他分野との連携を深めたい矯正専門医までを想定しています。
第一回の診断学に続き、第二回ではフォースシステムを学びます。アライナー矯正とエッジワイズ法の比較、ブラケットの選択とポジショニング、歯の移動に伴う組織変化、歯根吸収、固定源としてのTAD、ワイヤーシーケンスなど、実際に歯を安全かつ計画的に動かすための基礎を整理します。
第三回は「オルソペリオ」、つまり矯正と歯周治療の融合です。歯周病の病因やリスクファクター、不正咬合と歯周組織の健康、矯正治療前・治療中に必要な歯周検査、歯周初期治療と歯周外科の役割などを学びます。成人矯正では、歯肉退縮や骨の状態を無視して歯を動かすことはできません。きれいに並べることだけでなく、歯を支える組織を守りながら治療する視点が欠かせないからです。
第四回では補綴と矯正を取り上げ、診断用セットアップやワックスアップ、矯正用プロビジョナルクラウン、インプラント埋入と矯正治療のタイミングなどを検討します。第五回では歯内療法との関係を学び、歯根吸収、歯髄失活、アンキローシス、自家歯牙移植、根管治療後に矯正移動を始める時期など、臨床で判断に迷いやすいテーマに向き合います。
最終回となる第六回では、顎変形症に対する外科的対応と専門医連携、治療後の安定を左右する保定管理を学びます。つまり、診断から歯の移動、他分野との連携、治療後の管理までを一年かけてつなげる構成です。
「知っている」を「できる」へ変える実習

矯正歯科は、講義を聞いただけでは身につきにくい分野です。ワイヤーの性質を理解していても、実際に曲げ、歯にどのような力が加わるかを体験しなければ、臨床で再現することは難しいでしょう。
本コースでは、DIP法に基づくセファロ分析に加え、オリジナルタイポドントを用いたモディファイド・ストレートワイヤー法、各種ワイヤーベンディング、TAD、咬合器の取り扱い、デジタルセットアップモデルの製作などが実習に組み込まれています。タイポドントには前歯部補綴や歯肉退縮など、包括的な判断を必要とする条件が設定され、単純に歯を並べるだけでは終わらない設計になっています。
公式Instagramの活動報告からも、コースが講義のみではなく、参加者が手を動かし、インストラクターと確認しながら学ぶ実践型の場であることが伝わってきます。少人数制であることも、細かな疑問をその場で解消し、自分の理解を確かめながら進めるうえで大きな意味があります。
さらに最終回には、受講者自身による修了プレゼンテーションが予定されています。学んだ内容を人に説明するには、知識を暗記するだけでなく、自分の中で論理的に組み立て直さなければなりません。一年間の学びを発表という形で言語化することは、翌日からの臨床へつなげる重要なステップです。
GPと矯正専門医、それぞれにある学び
公式サイトでは、卒後五年目以降のGP、矯正未経験者から経験者、そして包括的矯正を始めたい矯正専門医が受講推奨層として挙げられています。
GPにとっての大きな価値は、矯正治療を単独の診療科として切り離さず、日常的に行っている歯周治療、修復・補綴治療、根管治療、インプラント治療と接続して学べることです。また、すべての症例を自院で治療するためではなく、自分で対応できる症例と、専門医への紹介や連携が必要な症例を見極める力を養うことも、患者さんの安全につながります。
一方、矯正専門医にとっては、歯を動かす専門性を土台に、歯周・補綴・歯内療法の視点を治療計画へ組み込む機会になります。複雑な成人症例では、一人の歯科医師だけですべてを完結させるのではなく、それぞれの分野の専門家が同じゴールを共有することが重要です。共通言語となる診断と治療計画があれば、連携はより具体的になります。
Instagramでは受講者インタビューも公開されており、コースで得た学びを今後の活動や日々の臨床へ活かそうとする受講者の姿が紹介されています。カリキュラム表だけでは分からない、受講者が学びを持ち帰り、それぞれの診療環境で育てていく様子が感じられる発信です。

ベーシックの先につながる学び
このコースは「ベーシック」という名称ですが、単なる入門講座という意味ではありません。診断、フォースシステム、歯周、補綴、歯内療法、外科との連携、保定までを一年で学び、包括的矯正治療の基盤をつくるコースです。
修了後には、矯正治療に伴う硬・軟組織のマネージメントや歯周再生をさらに掘り下げるO-PRO Ortho-Perioアドバンスコース、包括歯科治療における矯正スキルを高めるDIP矯正アドバンスコースへ進む道も用意されています。ベーシックコースで共通の診断言語と基本技術を身につけ、その先で専門的なテーマを深めていく、継続的な教育体系になっています。
目指すのは、患者さんの将来まで考えた治療

包括的矯正治療の本質は、たくさんの治療を一度に行うことではありません。患者さんのお口に存在する複数の問題を整理し、どの順序で、誰と連携し、どこを最終ゴールにするかを考えることです。
矯正治療で歯をきれいに並べても、歯周組織に無理が生じれば、長期的な健康にはつながりません。インプラントや被せ物を精密に作っても、歯の位置や噛み合わせに問題が残れば、理想的な形態や機能を得にくいことがあります。反対に、矯正、歯周、補綴、歯内療法の役割を治療開始前から整理できれば、必要以上に歯を削ることを避けたり、より良い位置にインプラントを計画したり、清掃しやすく長期的に管理しやすい口腔環境を目指したりすることができます。
綿引先生が主宰するDIP矯正ベーシックコースは、矯正装置の扱い方だけを教える場ではなく、患者さんを一口腔単位で診るための思考を学ぶ場です。診断の根拠を明確にすること。治療の限界とリスクを知ること。必要なときには他分野の専門家と連携すること。そして、治療終了時の美しさだけでなく、その後の安定と健康まで見据えること。
治療技術やデジタル機器が進歩しても、最後に問われるのは「この患者さんにとって、何が最善か」を考える力です。一年間を通して理論と実習を積み重ねる本コースは、その問いに向き合う歯科医師のための学びの場といえるでしょう。
公式SNSでは、各回の活動報告や受講者の声、関連セミナーの案内も発信されています。受講を検討している先生にとっては、カリキュラムだけでなく、実習の雰囲気や一年間の学びの流れを知る手がかりになるでしょう。